あたりまえたいそう

当たり前のことをかきます。たぶんINFP

気付いたらひとりになってる気がする

前回過去1友達が多いと書いたとは信じられないくらい孤独極まってる。孤独極まってるなかで友達増やしたり維持したりしようとしても多分態度から滲み出ててむずかしいんだよな、その寂しさが出てて、誰でも良さそうとか相手に本当は興味ないんだろ、構ってくれれば、って態度がでてるのかもしんない。わかんない。でもこの休み、誰か適当な人捕まえたり、無闇に甘えたり、落ち込んだりせず、落ち込みそうだから21時には悩み事やめて、楽しそうなライブ見て、漫画借りて、って楽しんでたの偉すぎるな〜〜〜〜〜〜。それだけは褒め称えたい。いや、ほんとは、こういう鬱々とした記事すら書きたくない。でも誰かに相談しようとして、それすら甘えのような気がしてこっちに書いてる、許してくれ、孤独だなんて思いたくないんだが脱しなきゃいけない気がする、わかんないんだけど…。

過去1友達が多い

この前「友達と話したいけど何を話したらいいかわからない」と言っていた者の発言とはとても思えないな。人間関係のやり直しをしている。学生時代隣の席になった人とも、趣味が同じだってわかっていた手前の人とも緊張して話せなかったトラウマを大人になってからやり直している。雑談がなにかわからなかった幼少期をやり直している。親と気軽に明るい雑談をした記憶がそんなにない。いやあったんだろうけど批判やいじられが多すぎて思い出せない。生活が豊かなので鮮烈な文章が書けない。生活が豊かなので自炊しているしお風呂入っているし明日の仕事のために早く寝ているしその明日の仕事は行ってみたらスッキリするしメチャクチャな生活していない。「そういう生活が好き」だったのってなんだったんだろう。そういうちゃんとした生活をしている人間のことなんだか避けていたと思う。傷ついてるのを分かってほしかったのかな。野菜を冷凍することは、ちゃんと自炊している人間がやることな気がして避けていた。やってみたらめちゃくちゃ便利だった。私がちゃんとしてしまったら面白くなくなって必要とされなくなるのかもって気持ちがちょっと?結構?いやたぶんあるんだろうな。でも彼もきっとそうだとおもうよ。忙しくて刺激的な仕事がしたくて全部振ってきたんだもんね、おなじじゃん。だから私とも付き合えないんでしょ、なんてね。あのね、私だって君と付き合ってつまんないことになんて一切なりたくないよ。まじで。ならそんな約束はいらん。悔しい。やはり生活を切り売りして文章を書くタイプだったのか。もう一個有名な媒体のほうでも文章を投下していくことにした。「文章を書こう」として書くほど面白いものは書けない。構成的になる。雨宮まみさんのことをたまに思い出す。

 

じゃあね、またね

もう悲恋に憧れるのはやめた。きみに恋愛している間、有り余るほどの悲しい恋愛ソングを探し漁ってはプレイリストにして感情に浸っていた。もはや、恋に恋していただけなのかもしれないね。アラサーにもなって。

そこから必死に逃げようと君の顔を正面から見たり、君の話をちゃんと聞こうとしたけど内から湧き出る願望に勝てなかった。だから逃げるんじゃなくて立ち向かうことにした。

高校生ぶりにちゃんと手紙書いた。大人って都合悪いことはわざわざはっきりさせないみたいだけど、私はしたかった。クソエモなぁなぁな物語に丸められたくなかった。君と仲良くなりはじめた時言ってたこと覚えてる?その中に当てはめさせたりしないよ。弱くて好きな人の言いなりにしかなれなくて、それを思い出にとっておいてあの頃は、なんて言うような女じゃない。ひとりでも過ごせるし、友達もいるし、そういう訓練をずっとしてきたの。訓練のかいあって、あなたに手紙渡した3日後もちゃんと仕事してるよ。平然とした顔で会議で笑ってるよ。頭の中は、恥ずかしさや寂しさや死にたいや寝たいや面倒くさいから必死に逃げようと戦ってるの。今週だけは、自分を傷つけないでおこうと思ったのに、どうも、行動することでしか自分を救えなくなってしまった。いちばん傷つくのは世界が停滞していることだ。目の前の世界が変わらないで飽きてしまうことをいちばん恐れている。変化の枠に君を入れなければ、この策略は成功だ。いつか、だれかを、変化の枠に入れないで、友達と同じように隣で伴走することができればきっと「成功」なのに。それを大学生や高校生で達成できる人がいる、彼らとの違いはなんなの?

寂しさや怒りや体力をどこに向けるかの違い

日記。きみとセブンルールを見た。その番組では30歳で個人の店を構える有名な女性パティシエが出演していた。24歳で独立。友達はいないんです。本当にいない、と繰り返し言っている敏腕女パティシエ。才能を枯らさないためには孤独が必要なんだね。僕は友達欲しいな。この会話のこともう今日には忘れてるんだろうね。わたしは暇だからこうして書き記しているだけ。何をしても体力が有り余っている。後輩の面倒みても朝帰りしてリモート開始しても昼間4つのmtgがあっても人生ではじめて7連勤しても猫のお世話してもどうしても永遠に孤独なの。どうしてだろうね?筋肉痛はあるよ。でも目と頭が冴えて眠ることができないの。思ったより私は体力お化けで寂しがり屋なのかな?死にたい。何を成しても満足できない。余裕がなくなりたい。絶好調なとき今いなくなったら沢山の人に悲しんでもらえるなってことばかり考えてしまうよ。こんなこと誰にも言ってないよ。ここでしか。こんな女の世話が君にできる?きっとできないね。世話してもらうつもりじゃだめなんだけどね。もっと求められたい。テレビにひっぱりだこのマツコは幸せなんじゃないかって社会で必要とされて。1人に愛されることとどっちが幸せなんだろうね。とかくだらないこと言った。こんなことももう覚えてないだろうね。きみに執着してしまうくらいならひとりで孤独を癒やしたい。ひとりで孤独を処理できなければひとと付き合うなんてできないよ。共倒れになるだけだ。そのこと何回繰り返すの。毎日ラインすることが幸せじゃない。暇の選択肢をきみで埋めることが幸せじゃない。感情がうごくこと、妥協しないこと、うそつかないこと、飽きないことこそが幸せ。

もし君が彼氏になっても突然幸せになれるわけじゃない

最近恋愛関係の本を立て続けに読んだ。どれも有名な本だ。

 

好きな人が彼氏になったからってすぐ幸福になるわけじゃないのは明白だ。そのことがずっとわかっていなかった。相手も私を付き合う相手と認めてくれるくらいには好かれている、という事実はあるけどその事実が落ちているだけで、中身はなんにも決まっていない。

会って何をたのしむのか、君が彼氏のままでいてくれるのか、好きは変動しないのか、何も確定していない。何の保証もない。なので未来があるから彼氏にする、という考え方はいささか間違いのように感じる。いまここを大事にしろ、というのはそういうことだと。未来を生きても、未来を想像してもいまの気持ちは絶えず変化し、そのことを無視した、考慮に入れない未来の想像はおそらく間違っている。人間が想像できるのはせいぜい1年後くらいまでだ。その想定だってたぶん当たらないだろう、こうなったらいい、こっちの方向に向かおうかなくらいのものだ。自分ひとりならまだコントロールできるかもしれないが、それが他人も巻き込んだ目標になるならそれはほぼ不可能では?と思う。やるなら目標を微調整しながら進んでいくほかない。

友達が増えたってそのことは幸福じゃない。友達と遊んでいるときや、わかりあえていると思うとき、楽しく話せるときが幸福なのであって、わかり合えるあなたが何しているか、今度何をするか想像するときが幸せなのであって、その事実が幸福なわけではない。

なので結婚も同様に結婚したら瞬時に幸せになれるわけじゃない。当たり前なのにこのことがずっとわかっていなかった。結婚の中身を想像していなかった。

橋本環奈がすごく羨ましくなったが、彼女の容姿や今までの努力で手に入れたたくさんの結果は彼女のなかにあるが、それがすでに当たり前のことであるならば、なんら、私たちと変わらないと思った。何を手に入れても手に入れたあとはその感動は事実となり、日々に感動していくには、また新しい何かを手に入れていかなければいけない。なので私が突然橋本環奈になっても橋本環奈をこなすことができないし、彼女の人格や人生を持っていないのでうまくやれないし、彼女の幸せを感じることができないだろう。よく入れ替わり系の漫画ってあるけど、実際あんなに上手くいかないと思う。わたしがARufaになっても彼の考え方をインストールすることができないので彼を再現することができないし、彼のすべてが乗り移ったなら彼の幸せを私の目線では感じられないので私は私にしかなれない。

人間の幸せはいくら何かを手に入れても幸せの基準があがっていくだけで、ゼロベースに戻ってしまうのだという。このことを聞いたとき、あ、私は正常だったんだ良かった、と安堵した。何を積み重ねてもまだ欲しいし、足りないし、あからさまにできることが増えてもそんなに感動しないのは当たり前なんだ。罪じゃないんだと。

 

会いたいと思えなかった理由

会っているひとたちに楽しませてもらうことを期待してたから。ほんとうは楽しくないのに楽しいと思い込もうとしていたから。べつのメリットを享受したくて楽しいことにしておきたかったから。自分から誘う勇気がないから誘ってくれたひとのことを相性がいいと思いたかったから。何をすれば楽しいのかわからなかったから。提案したことを楽しいって思ってくれる気がしなかったから。提案したことを素直に嬉しんでくれるようなひとたちじゃなかったから。そんなひとたちでもいいって受け入れちゃってたから。そのことに気づかれていなかったし、そうでもいいと思われていたから。楽しいっていうのは、創造することではなく与えてもらうものだと思っていたから。そんなんじゃ心こわれるよー。ねぇ。そういう感情で結婚しなくて、相手選ばなくて心からほんとうによかった。ねぇ。ひとりだけど。ひとりでもこれからもっと楽しいひとと会える可能性残しておいたほうがよっぽど楽しいでしょ。

さみしいときに考えること

仕事が終わって夜暇なとき、あらゆる友達にも取りたい連絡は取りきったあと、わたしは関わりがある彼らが何をしているんだろうと想像する。彼氏彼女旦那妻と一緒に過ごしているのか、険悪にしているのか幸せにしているのか、ご飯は作っているのか買ってきたものか、はたまたテレビを見ているのか、何か勉強しているのか、ゲームしているのか、友達とひとりで。次もし会えるならなにをしようか。今連絡がとれなくても明日仕事のひとたちの存在は確認できる。友達の姿が簡単に確認できないのは社会人のよくないところ。そう思うと学生時代に友達のこと愛してたらもっと日々が楽しかっただろうなあ。本当に会いたくなったときは自分から連絡する。周りの人のこと愛してなかったとき、連絡をとっていなければ孤独で忘れられていると思っていた。それはわたしが何もしてないとき、一切彼らのことを思い出したことがなかったからじゃない?すぐに新しい人間に頼ろうとしては切ってた。頻繁に繋がりをもってくれる雑なひとでもいいから求めてほしいと思っていた。全然よくなかった。自分から求めたほうがよっぽどゴールが近かった。たまたま運が良くて、小さな頃に求めてもらった経験をずっと覚えていて、その考え方が正解なんだと思っていた。待つことでしか幸福を感じれないのはとても不幸になりやすいと思う。コントロールできる範囲を自ら減らしている。

昨日ふたりの友達にまあまあ本気で怒られた。その考え方は違うのでは、のような、ただの肯定じゃない真剣に取り合った言葉をもらった。一見ほんとうにどうでもいい他人のことにそんなに真剣に言葉をもらえることが感動した。あ、間違ってたところあったな。と思った。わたしが言っている内容を真剣にジャッジしてくれるんだ。真剣にそのものごとを聞いてくれるって嬉しいんだ。みたいな。こういうことも書き記さないとすぐに忘れてしまう。強欲だから。

会社のひとにチヤホヤされた。あっ、してくれるんだ、と思った。なんか頑張ってきて良かったなとおもった。自分からあげてないけど褒めことばがもらえるようになった。ひとへの褒めことばはそう思ったときにあげている。欲しいものはそれを切望した時期が終わるくらいまで気にならなくなったときに手に入る説はガチかもしれない。