あたりまえたいそう

当たり前のことをかきます。たぶんINFP

わたしたちは結局は1人であるということを忘れそうになる

ネガテイブな意味ではない。むしろ人間関係を快適に継続させるための心得である(私個人の)。


私が人と親しくなると、だいたい発生する問題は嫉妬心や不安や要求を満たしてくれない欲である。


「わたしたちは結局は1人の人間である」ことを忘れそうになって、自分の幸せや欠乏感を何かをくれる誰かに満たしてもらおうとしてしまう。空いた穴を誰かが埋めてくれるんじゃないかと期待して油断しはじめる。


親しくなるにつれ、無意識に溢れ出てくる依存心をひた隠しにしている。普段は、どちらかと言えば、クールだねドライだねと言われるから、取り繕うことに成功しているのだろう。でも、それはものすごい依存心の裏返しである。油断するとものすごい甘えたくなるし境目もなくべらべらネガテイブなことを話してしまいそうになるので、意識してツンケンしている。可愛くないと言われればその通りである。


だから結局いちばん心が休まるのは1人の時なのだった。人が離れていく心配も、人が心地いいかどうか帰りたくないかどうかの心配もしなくていい。1人か、ある程度親しい友人何人かと短い時間、話題ができた頃に会う状態がちょうどいい。


「他人が信頼できない」と言う時、他人のどこが信頼できないのかと思うが、私は未来的な時間軸の約束が信頼できない。そして私も約束できない。人は刻一刻と変化しているのに、予想できない未来を約束するっていうのは、「それだけの(予想できない未来までこの意思を持ち続けたい)覚悟がある」という宣言だと思えば良いのだろうか。こういう考え方をするようになったのは、過去に何か未来的な約束をして裏切られたことでもあったのだろうか。


たぶん、自分自身の未来に対して持っていた約束(期待)が果たせなかったからだと思う。小さい頃、小5になったらあんな風に背が伸びて可愛くなるんだろうなあと勝手に信じ込んでいたけどならなかったし、中学生でマジメを続けてそこそこいい成績取っていい子でいたら、高校では「何かが」(具体的には、漫画みたいなリア充ハッピーライフ)報われると何の根拠も検証もせず疑わなかったけどそれも叶わなかった(今思うと、努力の方向性を間違えているので当たり前)。


そんな些細なことである。結局このくらい性格もその時つくられたのかなあ


※追記

ポジティブな言い方でめちゃくちゃいい記事がありましたので載せておきます。


夫婦関係を円満に続けていく秘訣を描いた漫画に「これ大事」「人間関係全てに使える」

https://togetter.com/li/1111223

言えないことが増えてきた

昔から秘密主義なところがある。それは理由があって、小学生の頃好きだった漫画の主人公が秘密を持っているミステリアスガールで憧れたり、意見を少しでも否定されることがものすごく嫌だったりするからだ。だから隠さなくてもいいことを隠したりする。いやらしいことではないけど、この意見は受け入れられないだろうなと思うことは隠す。もちろん、相手によって出す情報と量は変える。何を言っても否定せず受け入れてくれる菩薩のような人だったらべらべら喋ってしまうだろう。


最近仲の良い友達と、彼氏ができたけど、言えないことが増えてきた。それは相手の価値観を以前よりわかり、意見が否定されるか受け入れられるかある程度予想できるようになったからだ。この食べ物が好きとか、この趣味が合わないとか疲れたとかは言えるよ。でも根本的な部分は、これからも仲良くしていきたいから言えないんだ。逆だろって言われそう。まだ好きな人から否定される覚悟ができない…

感情の起伏が激しすぎて本当に生きづらい

死にたいわけじゃない。落ち込んでいる時の気分がつらすぎて何度もやめたいと思ったけど無になれないこともわかったので、もはや死んで楽になる道は諦めている。

それでも本当に感情の起伏が激しすぎて生きづらい。少しの自尊心に触れられただけで、真っ向否定された気がして(相手は励まそうとしているとしても)何もしたくなくなるし、ちょっと褒められても、最近はありがと〜って受け入れることにはしているけど、自分が認めていないことは他人に認められてもそう簡単には褒めることができない。


その感情の起伏に関して、周りに伝わっていると思っていたがそうではなかったみたいだ。私が諦めそうになると、もうちょっと頑張れ、もうちょっとやれば何かできるかもしれないのにそこで諦めるのはもったいないと言われる。いや、わかる。好意で言ってくれているのもよくわかる、しかし、ちょっと無理してチャレンジしてその後の自分を受けとるのは誰だ。自分だ。それを有り難く言ってくれる人には、私がそのちょっとの無理に耐えられるように見えているんだと思う。


そういう、無理するか無理しないかしてここまで生きてきたけど、どんな些細なことでどこまで崩れるか知らないだろう、と思ってしまう。恩を知らないよなあ、でも、言葉やアドバイスはどれだけ無責任かと思う。だから私も、自分が元気で優位な時にそのような発破をかけることをしてしまっていたかもと思うと謝りたくなる。


追記

※あまりに感情的すぎて人生(就活)に支障がでてきそうなんで「感情的にならない本」(アマゾンベストセラー)でも読もうかと思います。

また啓発本ブームか…という感じですが読んで考え方が変わったか、また書きますね。

自分はそこにあるから、探す必要なんてない

こんにちは。曇り気味の日曜をいかがお過ごしですか。私はたのしいプライム生活を送っています。

蒼井優だいすきな私はやっと「百万円と苦虫女」を視聴しました。

表題はその中で印象的なセリフ(たぶん間違ってる)ですが、蒼井優の……というか役のこういうところだいすきですね。脇目もふらずバイト行っては家に帰る生活を毎日続けることができるようなストイックな(本作はそれで百万円が貯まったら次の街へ引っ越すという話)性格も、私はできないので超かっこいいと思います。今の彼氏もそういう人です。


そんな私は日曜の朝から自分を探しにいくのですがはたして見つかるのでしょうか。見つかるわけない。産み落とされたわけでもない親戚もいないあこがれて見栄をはりまくって立っている都会の喫茶に自分が落ちてるわけない。ありがとうございました

は?しあわせすぎなんだが

急にしあわせがやってきた。私の地獄のような(主に心が)生活が四年目にして功を奏した。いや毎回、連続した生活の終盤一年間にしあわせはやってきて環境が変わるとふたたびあたふたしはじめる。書いてみたらあまりに普通すぎてわらえる。


そのしあわせを守る方法についてである。これまで散々書いてきたように、私は些細なことで心が壊れてしまう。あと、飽きっぽさが周りの平穏を壊してしまう。

べつに悪いことではないけど、見切りが早すぎて何も成せないことが多々ある。


一番途切れないのはほどよい緊張感と不安である。見放されるかもしれないくらいに感じているのがちょうどよくて、そのほうが、ひとこと発する言葉に気をつかえるし自分の出さなくてもいい人に甘えきった部分もちょうどよく抑えられて良好な関係を築ける。とおもう。


ぜんぶだすのが人間関係じゃない。とおもう。小学生くらいの頃、好きな人がいて「なんで好きな人に好かれるために自分を変えなきゃいけないんだろう、ありのままの自分をぜんぶすきになってくれたらいいのに」と真顔で思っていた。たいそうな自信である。せっかく係で廊下をふたりで歩ける機会があったのに、私はぷんすか(?)真顔で「話しかけてきてくれないかな〜」と思っていた。あほである。いまなら◯◯くんの趣味を聞くか服を褒めるくらいする(恥じらいが消えたとも言える)


しあわせを守る方法は、親しき仲にも礼儀あり…ですかねぇ……。

言語化が下手だから歌が好き

どうも。口癖が「なんか」と「なんで?」な奴です。よろしくお願いします。

 

こんなブログを書いてますが、言語化が特に上手くもなかったことに気づいちまったんだよ……。ついに…ついにぃ

事の発端はまたいつか書きますが、今回は「言語化が上手くないから代弁してくれる歌が好き」(出オチ)についてまとめてみます

 

古い友人で、「歌は歌詞で好きになるんだよね」って言っていた女の子のことをよく覚えています。

その時まで、私には歌詞という概念がなく(小5とか)その子は昔から読書をよくしていた子だったので、歌も歌詞(文字)を見て好きになっていたのだと思います。

それからメロディーだけじゃなく、当時はモー娘(特にゴマキ)がめちゃくちゃ好きでしたが、歌詞カードを見てどんな意味なのかも考えるようにしていました。でも全然、カケヒキ?ジュンジョウ?サミシイ?ってなに?みたいな感じでちんぷんかんぷんでした

いやこれ、小5にしては発達してなさすぎか笑 記憶が混ざっているのかもしれませんが。

 

で、今もYoutubeミックスリストで未知の音楽との出会いを毎日楽しんでいるほど歌がすきですが

無意識のうちに「心の言語化できないもやもやした部分」を代弁してくれる歌を好きになっている気がします。

ぼくりりもそうだし、大森(靖子)さんもラブサマちゃんもそうですね

 

ぼくりり…なんで生きてるんだろう?どう生きるべきか?かっこいい生き方とはなにか

大森さん…「かわいい」で評価されて生きてかなきゃいけない女の子の歌

ラブサマちゃん…毎日の生活の怠惰や些細な変化をゆるりと受けとめて生きていきたい

※あくまで個人の感想

 

頑張って言語化したのですが伝わりますかね…。上のアーティストを知ってる人がちょっとわかるって思ってくれたら嬉しいなー

へぇーって興味持ってくれた方も聴いてくれたら嬉しいなー!

 

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「いつか死ねる」と考えるのは唯一の逃げ場だった

「いつか死ねる」が、「死にたい」と口に出してしまうようになったのはいつなんでしょうね。

 

身近なひとの発する「死にたい」はつらい。特に親からとか言われた日には…。 https://t.co/mwxrn1ur0a

— わかり手@メンヘラ.jp (@ganbare_zinrui) 2017年5月8日

 

最近メンヘラ.jpさんばかり読んでますが、ひときわ衝撃を受けた記事がこちらです。

 

私が「いつか死ねる」に初めて救いを持ったのは、中3の頃かと思います。夢のJK生活を送るための高校選びや3年生になってもうまくカーストに入りこめず、なんとなく晴れない日々を送っていましたが、前触れは、あったかもしれませんがあんまりはっきりしたものはないと思います。急に「やばい、すべてがめんどくさい、全部やめたい」と思ったのですね。

幸いにも自分と似た友人がいたので、その子と辛い時はどうやって乗り越えたらいいんだろう……と毎日話していました。

よく覚えてるのは「無になればいいんだよ」という言葉。辛い時は、無になれば、何にもかんじないし、つらくないよ。それから私たちの間では「無になろう!」が口癖でした。

 

それから、辛いことがあったら「大丈夫、いつか死ねるんだから、まだ死んでないから、大丈夫」と辛さを死ぬことの辛さと比較して耐えていくようになりました。

 

それがいつから「死にたい」になったのか…?

 

そもそも「死と比較するくらいの辛さに耐えていくのが人生、普通、仕方がない」と諦めて耐えつづけられると思って生きていたのが違った気もします。

死のハードルを下げすぎたのかなあ。

 

頭では、そう言われるのがつらいのはわかるし、言霊的なものの効果を最近感じるので、使わないほうがいいのはわかります。でも、それを使うな、逃げるな、て言われたらつらいな……。違う言葉で置き換える「どこか行きたい」「休みたい」も有効かとは思います。

 

家族にメチャクチャ言っていた時期がありました。言った時の顔(どちらかというと迷惑そうだし飽きられる、どうせ死なないんだろ、と言われる)を思い出すともう言わなくなりました。友人にももう言ってないかな…「つらい」「もうやだ」「やめたい」は言いますが…今言えるのはネットとGoogleの検索窓だけです。

 

多分、人生に向き合うのがこわいんですね。「あと数年後、生きてるかわからないじゃないですか」もよく言います。あまり「長生きしたくない」も。覚悟を決められないまま、だらだら生き続けている、正直それでいいじゃないかと思いますけど根が暗くてクソ真面目なので適当に生きるのはできないんですね…。あと、何か覚悟を決めて、辛いことに耐え続けぶっ壊れる日が来るんじゃないか(上の、耐え続けた結果のやばいすべてが面倒くさい全部やめたい)という予想がこわいですね。だったら、半分諦めながら意外と生き延びてしまったほうがいいと思います。

 

あまりまとまらなくてすみません。

とりあえず、メンヘラ.jpさんには日々救われています。(ありがたや…)