あたりまえたいそう

当たり前のことをかきます。たぶんINFP

生きるかどうか、選ぶ権利は君にあるって言ってほしかっただけ

だから大森さんの歌や、哲学や、それら「生きること自体を疑う人」を見たりすると泣いてしまう。生まれた瞬間、生きなければならないという使命を与えられるなんて信じられないな。重すぎる。僕らには意志はない。だから出生反対派には賛成できる。

 

だからって子孫を残したくないわけでもない。身勝手な行為だなと今でも思う。

ポジティブな人について、最近考える。ポジティブな人は2種類いると思う。本当に何も考えずに良いを信じきっている人と、考えたうえで責任を受け入れ良いを信じている人。後者は偉いな。私は最近後者になりたい。後者の人はとてもかっこいい。ただ今の私には、前者と後者をぱっと見分けるのは難しい。

 

生きるかどうか選ぶ権利は君にあるよ。皆にあるよ。その前提で生きてほしかった、前向きに、とか、約束は守れ、とかこちとら、瞬間でその狭間を迷っている。それは子どもっていうんだってね。私はまだ大人になれない。大人のフリが、長くできたらいいな

肯定感を育むための全て

久々に本業で幸せな気持ちになったので書くのですが、仕事もセックスも友情も趣味もひとの肯定感を育むための全てなんじゃないかって。

ひとが健康的に生きていくための根本に肯定感があるから、それを育むためにひとと関わろうとしたり何かの活動を通して自分で自分を認めようとしたりしているんじゃないかって。寂しいも愛も遊びも意識高い系も歌手も服も。

生きていていいよって言ってほしかったな、間接的にでも、「本当にそう思っている」と感じられるような行動が欲しかったんだ、って。欲張りなんだね。他の人は言われなくても生きていけるのに。

他人の些細なマイナス感情や無関心を読み取り、何かの拍子ではっきりとそれを言われてしまえば、肯定感など積もっていない中身がたちまち壊れてしまう気がしていた。私の病はずっとそれだ。

思春期を過ぎても持病の臆病は環境に守られていたので、強くなる覚悟もせず、潰れては休んで諦めて生活を続け、健康な人とどこか対等に立てないでいた。

【健康で文化的な人間らしい生活を送るために必要な肯定感を育むための全て】

周りの気持ちを考え始めた途端に破綻

することが多い。私は。大体、一対一の数十分ならまだしも、会社など、何十人もいる中で周りの気持ちを慮りはじめると大体私の心の生活は破綻する。行動に一貫性がなくなる。それが心の中の疲労の原因であることに気づくのはとても遅い。その頃には自分の気持ちがどれなのかわからなくなる。その時に何かしらの選択をすると、選択が間違っていたかのように思う(実際は選択に"間違い"などはないので、思う、なのだ)。選択を後悔する時、大体周りのせいにする。「あの人がああ言っていたから」「周りの環境的に、無理のような気がしたから」私がこれまで、これは絶対に確実に自分で決めたし自分がしたいし自分で責任を負うと決めて行動できたことはひとつしかない。内容はここでは書けないけれど、何が起こってもしない方が後悔する、と思ってしたことだ。自分の気持ちは自分の気持ちであると断言するのは、人がたくさんいる中で生きているうえでほぼ不可能だと思う、油断していると誰かの思考が自分の中に入ってくる。だからたくさんの知り合いと心地よく過ごすのは私にはできない。

SNSが人格を持ち始める日

いろんなサービスを始めて、ある程度の日数が立つと人格を持ち始める。見ている人がいなくても、いればなおさら、なんとなくそれを守ろうとする。人間は「一貫性」をとても重要視するらしい。辻褄が合わなくなると、言い訳をしてでも一貫性を持たせようとする。

社会的なことが私は本当にきらいだ。苦手だ。その中で求められているような人格になろうとしてしまう。息苦しい。

それを皆は上手くスルーして生きていくのだ。時々リセットしたくなる症候群(http://menhera.jp/2484)はここからくるのだ。SNSこそ簡単だが(口で言うのはそうであっても)、私は1番最初に作ったもはやフォロワーのジャンルが混沌として発言がしにくくなったtwitterアカウントでさえ未だリセットすることができていない。執着はないつもりでいるのだが、可能性を捨てるのがとても苦手なのだ。

これは夏バテだ。そう思っておくことにする

 

※前回「社会のことが分かった!」と書いておきながら今回「社会が嫌いだ」と書いているの情緒不安定っぷりすごいなと思いました(理解と好きは違いますが)。びっくりしました。

社会で生きるとはどういうことかについて考えた

ニュースに疎い私だったが、有難いことに「最近の話題」「社会の仕組み」「大人」などについて教えてくれる先生や学ぶ場所があり、社会のことが数年前より少しはわかってきたのだと思っていた。

 

「水道の民営化がうまくいかない」について考えをレポートする機会があった。具体的には、「ヨーロッパ(イギリスやドイツ)で進められている水道の民営化だが、人件費や設備投資のコストダウンにより水質管理などがおざなりになっている」という話だった。自宅で水道が壊れて水道会社(民間)に連絡しても、お前の管理が悪いと言われ治しに来てくれないのだとか(by Kern TV)

分かりづらかったので、ネットで調べた。

 

「水道民営化」法で、日本の水が危ない!? | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/07/post-7936_1.php

 

なるほど、生命維持に関わるライフラインをお金儲けしようとすると、人間の私利私欲が出てしまうので、商品(水)が「すぐに簡単に利用できる」「いつでも高品質な水を維持する」などのお金儲けにならないことは後回しになってしまうのだと理解した。

 

ビデオで、水道屋さんが治しに来てくれないと嘆いていたお父さんが、弁護士の娘に被害を相談した(無料で)と自慢げに話していた。

 

なるほど、これが社会か?と思った。

水道…人間が生きるのに必要なもの

水道会社…水(ライフライン)を管理せねばならない、管理するために常に働く人(機械でも可、しかしその機械を生み出すのは人間)が必要

水道が壊れて嘆く父…水が使えなくて困っているが、弁護士の娘という助けてくれそうなつて(救い)があった

弁護士の娘…法律の勉強をし、困っていた父を救う

父と娘(人間)…生きていくには水が必要

 

ああー!!これが社会かー!!だから勉強しなくちゃならなかったのかー!!救い合わなきゃならなかったのか、ギブアンドテイクだったのか、と理解した(ひとりで)

 

うえのあたりを、くるくる回ってる図とかにしたらもっと分かりやすいかなと思った。

 

社会って規模がでかすぎて、自分が必要なのか分かりづらい。(現に日本なら自分が働かなくても生きていける環境がある)

これが村ぐらいの規模なら、周りの人と救い合っていくために働かなきゃ(罪悪感も必要性も感じるので)ってなるけどな。

 

最近の日本は元気がないので、なぜ働かなくてはいけないのか疑問を抱いている人が多い。分からなくて、心をやられてしまって、働くのをやめるし、働くのは嫌だというループだ。どうしたら、凡人でも末端でも自分が必要だと思えるようになるんだろう。わからん。

本音を言えないことが大嫌いだった

※すみません、バグでめちゃくちゃ記事が量産されてしまっていたようです。更新履歴?がめちゃくちゃ荒らされていたらごめんなさい…。スマホで更新するの危険だ…。

スターつけてくれた方の記事消してしまっていたらすみません。

あと追記しました。

 

 

これは小学生頃から思っている。

私はたぶんませていて、幼稚園や小学生の頃は母親たちの会話を側で聞いていることが一番好きだったり、友達を作ろうと躍起になることがなかった。めちゃくちゃマイペースだった。皆そうなのかな?

 

しかしこれは、のちほど世間の目を意識してしまった後に崩され、ながいながい思春期に突入し、それはいまだ終わっていない。世間の目を知らないあの頃のほうが、考え方は落ち着いていたしよっぽど悟っていたような気がする(何も知識がないので、幼稚な悟り方ではあるのだが)。

 

「本音を言えないことが大嫌い」になったのは、たぶん思春期に入ってからだ。世間の目を意識した時、周りの大人や親や先生やクラスメイトの欺瞞(言い方きつい)が目に見えるようで、それが嫌で気持ち悪くて仕方なかった。クラスメイトが、さっきまで悪口を言っていたのに、その後本人と何事もなかったかのようににこやかに話しているのを見た時なんか「はぁ〜〜〜?!?」みたいな感情がたぶん顔に出ていた。学校では、「なんでそんな“世間的に良いこと”を言うんだ、本当はそんなこと思ってもないくせに」と席におとなしく座りながら、頭の中では、この静かな教室の窓を割ったり机をぶん投げたりしてぶち壊したいと願っていた。(残念ながら実行したことは一度もない、代わりにヤンキーが勝手に暴れてくれた。)その私の姿だって随分欺瞞的だ。それもあって私は自分のことが大嫌いだった(思春期特有の症状)。

 

おそらく「他人の本音を見たい」心理が働いていると思うのだが、たまたまついったーで見つけたこのブログが本当に面白い。

 

アダルトチルドレンな日々

http://blog.livedoor.jp/ilovecat1/

 

彼女も「ここでしか言えない」と書いているように、ブログという場を借りて本音(ブログ用に脚色もあるだろうが)を綴っている。

主婦友ランチからの卒業(http://blog.livedoor.jp/ilovecat1/archives/51978728.html)なんて傑作だ。主婦や女性じゃなくても、一度は考えたことがあるはず。エッセイ本になりそう。

 

彼女の話に全ては共感できない。というかほぼ共感はできないが、それも彼女はわかっています、というスタンスも好きだ。読者からのメールの返信(http://blog.livedoor.jp/ilovecat1/archives/51961584.html)で「あなたと私は立場が違うから理解しあえない」と丁寧に立場の違いを説明しておられる。あまりネットでこういう風に、「私の意見」と「あなたの意見」と区切れる人はあまりいない(とくに増田では……)

 

※追記

この方のブログにハマってしまい、1日読んでいたのだが、ACの傾向がある自分はどうしても気持ちがつられてしまい気持ちがめちゃくちゃ沈んでしまった。忠告ではないが、中毒性があるので(褒めてます)、心して読み始めた方がいいかもしれないです。

 

本音の話はまだしたいが、一旦区切る。

現在は「本音を言えないことが大嫌い」はだいぶ落ち着いている。脱思春期中だ。「社会」でうまぁ〜〜く生きていくために、私も欺瞞的にならざるを得ない。得なかった。でも、その気持ちは心の底で大事に持っておきたい。持っておかなければ…

また言いたいことが言えなくなった

こんばんは。色恋沙汰のお話です。
のろけ話がいやな方はスルーしてください。

 

またお付き合いしている人に「言いたいことを言えない現象」がやってきました。言いたいことができて、言えなくて、迷っているうちに下書きをメモに追いやるという。

こんなめんどくさいことは、言わない方が、嫌われないだろうなあ…っていう。

で、言わないと、後々もっと気持ちがこじれるんですけどね。

友人だったら「ずっと会うを約束している関係」でもないし、「お互い好き合ってるから会う」わけでもないし、「言いたいけど言えないなあ」案件が発生しても、根に持つような感情ではないので(友人関係を重く捉えていないので)、まあいっかで忘れられるんですけどね。友人に関しての今の捉え方は、「一回会うこと(次の約束)を楽しみにする」ような感じです。

恋人は、付き合うならば長くなるだろうなあと思って付き合います。となると、なるべく良好な関係を続かせたいわけですね。で、面倒くさい感情が自分のなかに発生すると、良好な関係のために、言うべきか/どうやって言おうかめちゃくちゃ悩むんですね。本来逆なんですけどね。

以前、ネットで見つけた心理カウンセラーの方にお会いして、恋愛相談をした時に「付き合う人には一番心を許す」というのを聞いてメカラウロコが落ちたことがあります。私は逆のようなことをしていたからです。嫌われることがこわくて、良好な関係のために気を遣って、ビクビクしている。(気を遣うこと自体は悪いことではないです)

現在のいちばんの解決策は「一番最初に言いたかったことを一言でスパッと言う」です。

「言いたいのに言えない」案件が発生する、理屈や遠回しをこねくり回して本音を気づいてもらえるように、察してもらえるように長々説明しはじめる(女の悪い癖の)発端は、最初に現れた「言いたいこと」を「これを言ったら嫌だなあ…(ださいなあ、嫌われるかなあ、恥ずかしいなあ)」で封じ込めてしまったからだ、と思っています。

あ〜〜どうしようかなあ「こんな何もできない私でいいの?」とか「ほんとに好き?」とかめっちゃださいよなあ〜〜〜