「いつか死ねる」と考えるのは唯一の逃げ場だった
「いつか死ねる」が、「死にたい」と口に出してしまうようになったのはいつなんでしょうね。
身近なひとの発する「死にたい」はつらい。特に親からとか言われた日には…。 https://t.co/mwxrn1ur0a
— わかり手@メンヘラ.jp (@ganbare_zinrui) 2017年5月8日
最近メンヘラ.jpさんばかり読んでますが、ひときわ衝撃を受けた記事がこちらです。
私が「いつか死ねる」に初めて救いを持ったのは、中3の頃かと思います。夢のJK生活を送るための高校選びや3年生になってもうまくカーストに入りこめず、なんとなく晴れない日々を送っていましたが、前触れは、あったかもしれませんがあんまりはっきりしたものはないと思います。急に「やばい、すべてがめんどくさい、全部やめたい」と思ったのですね。
幸いにも自分と似た友人がいたので、その子と辛い時はどうやって乗り越えたらいいんだろう……と毎日話していました。
よく覚えてるのは「無になればいいんだよ」という言葉。辛い時は、無になれば、何にもかんじないし、つらくないよ。それから私たちの間では「無になろう!」が口癖でした。
それから、辛いことがあったら「大丈夫、いつか死ねるんだから、まだ死んでないから、大丈夫」と辛さを死ぬことの辛さと比較して耐えていくようになりました。
それがいつから「死にたい」になったのか…?
そもそも「死と比較するくらいの辛さに耐えていくのが人生、普通、仕方がない」と諦めて耐えつづけられると思って生きていたのが違った気もします。
死のハードルを下げすぎたのかなあ。
頭では、そう言われるのがつらいのはわかるし、言霊的なものの効果を最近感じるので、使わないほうがいいのはわかります。でも、それを使うな、逃げるな、て言われたらつらいな……。違う言葉で置き換える「どこか行きたい」「休みたい」も有効かとは思います。
家族にメチャクチャ言っていた時期がありました。言った時の顔(どちらかというと迷惑そうだし飽きられる、どうせ死なないんだろ、と言われる)を思い出すともう言わなくなりました。友人にももう言ってないかな…「つらい」「もうやだ」「やめたい」は言いますが…今言えるのはネットとGoogleの検索窓だけです。
多分、人生に向き合うのがこわいんですね。「あと数年後、生きてるかわからないじゃないですか」もよく言います。あまり「長生きしたくない」も。覚悟を決められないまま、だらだら生き続けている、正直それでいいじゃないかと思いますけど根が暗くてクソ真面目なので適当に生きるのはできないんですね…。あと、何か覚悟を決めて、辛いことに耐え続けぶっ壊れる日が来るんじゃないか(上の、耐え続けた結果のやばいすべてが面倒くさい全部やめたい)という予想がこわいですね。だったら、半分諦めながら意外と生き延びてしまったほうがいいと思います。
あまりまとまらなくてすみません。
とりあえず、メンヘラ.jpさんには日々救われています。(ありがたや…)