学んだことひとつ

(自己管理ができる)大人になりたい

休むことや止まることに罪悪感がある

あ、やめたい、と思ったときに「もう死ぬしかない」と急な思考回路になる。逃げられない人が潰れていくんだよ、とはまさにそのこと。


有り難く、現在は人間関係に恵まれている。自分からアクションを起こさなくても、連絡が来るようになった。逆に途絶えてしまった人もいる。すごく前に読んだ「あなたは絶対運がいい」(作者が金持ちのお嬢さんでディスられているが)という本に書いてあった、住む世界が違ってしまったとかそういうことなんだと思っている。というか、この「連絡を私からするか否か」については、「私から連絡する」ハードルが物凄く下がったからあまり労力や精神的疲労を感じていないだけなんだと思う。その意味でも、以前あれだけ望んでいたものを、いま手にしている。


RADの歌で「どれだけ望みを叶えてきたか」という歌詞があるけど、それだと思う。まあでも、勇気を出すを繰り返してそれが勇気が必要じゃなくするという繰り返しである。できるが増えるのは、そういうことである。人生はたぶんそれである。人生を生きやすくするのもたぶんそれである。


最近子どもができたら何を教えようかなとよく考える。私の親は、逆に、あまり教えてくれなかった。これこれこんな人生だった、とか教わることもあまりなかったし、逆にこれをしなさいと命令されることもあまりなかった。親の親に強制されていたから「自由にしたいことをさせてあげたい」と思ったんだそうな。有難い。有り難く貧乏じゃないし、他の子ができないことができたりする。感謝し足りない。


子どもには「とりあえず失敗してもいいから何でもやってみなさい」と言いたい。周りの大人が言う陳腐な台詞だけれども、子ども相手ならば「失敗したら戻ってきていいから、いくら失敗しても私はあなたの味方だから」と言いたい。言葉に出すことはたぶん重要だと思う。親も思ってたかもしれないけど、伝わっていないから。


脱線した。私はいまだになるべく完璧でありたいしよくなりたいしよくならねばならないと思っている。だから真ん中の自分は「もうやめたらいいんじゃね?」「これやったらめちゃくちゃつらくね?」と思っていてもいやまだやれる、とか、周りが期待してる、とか、将来のためにならない、とか思って続けてしまう。もはやどちらが本音かはわからないが辛い選択をする傾向にある。ドMである。「刺激の多い人生のほうかたのしい(それが不幸でも幸でも)」とは、はっきりと思っているが、それに真ん中の臆病な自分が耐えられるかわからない。急に「ストップ」のこえが大きくなってすべてをやめてしまうかもしれない。という葛藤や恐怖を1日のほぼ半分は抱えている。すっげ〜〜今日めちゃくちゃ安心〜〜な日、何も考えてない日〜〜は人と一日中遊んでいる日か、1人なら1カ月に一日あるかないかくらい。一日中寝てたら、なにも考えないけど、長時間寝て起きた後の怒涛思考ラッシュが恐ろしい。


それをある大人に相談したら専門医かカウンセラーに見てもらったら、と言われたのでカウンセリングに行った。カウンセリングは全く否定のされない会話で、デトックスにはなったけれど、普段から友人や相談相手がいるいまの状態だとあまり違いを感じられなかった。継続したら、また変わってくるかもしれない(でもあまり時間がないから、いまは継続がきびしい)。


専門医はまだやっていない残された道だ。薬で不安を抑える方法もある。これも「勇気」や「少しの手間」「負担」を超えれば、少しは生きやすくなるかもしれない。これが「でき」たら思いのほか良い効果があるかもしれない。たしかにすべては、やってみないとわからない。

twitterも見れなくなった

情報過多らしい。twiiterも、本垢が混沌としすぎて見るに耐えなくなったから閲覧用アカウントを作ったのに、それも見れなくなった。

人の言葉に影響を受けやすいたちなので、影響を受けてもいいような、すきな人たちをフォローしたはずだったのだがそうでもなくなってしまった。

SNSや、ファン活動なら、勝手に好きになってそうでもなくなってもあまり周りに影響を与えない。

しかし生身の人間相手でも起こりうるのである。私だけがしているわけじゃない、される側でもあるけれど、「飽きる」のは「わるい」ことかしら。それが出会いと別れと呼ばれる事象なのか

ついにネガティブをやめる日が来たらしい

ネガティブや哀愁は自分のアイデンティティのひとつだと思っていた。それで魅力が増している部分があるような気がしていた。(あながち間違いではないと思う)


会う人話す人にネガティブやめた方がいいよと言われるようになった。こんなことは少し前までなかったことだ。(あるいは、あったのかもしれないが気づけなかった、気づかないふりをしていた)周りの環境が確実に変わってきていた。


無理にでもネガティブ強制したほうがいいやでワイが治してやる!(こんなことは言っていない)とわざわざしてくれる人があからさまに増えた。多分私がもろに生きづらさを露呈しはじめたからだろう。おちゃらけとネガテイブの差が激しいので見ていられない(可哀想)のかなという気がする。


生きづらさを露呈するのにはもちろん恐怖があった。過去に人を困らせてしまったことがあった。それはものすごく距離の近かった友人や、親や、ネットの友達だったりである。あれは露呈の仕方がものすごく直接的で横柄でひどかったなという記憶がある。


ネガティブを離れるのは正直寂しい、こわい、何か生み出せなくなるのでは、という思いもあるのだけど、生きづらさが解消されるのならこの機会にポジティブ野郎になってみるのもいいなと思います。ポジティブ野郎になります。宜しくお願いします


具体的に提案された案は

・メンタル面が心配で行動できないなら病院いけ!(行動できない理由を行動して解消しなさい)

・逃げを覚えよう

・先延ばしをやめよう

・ぐだぐだやめよう

・言い訳やめよう

・覚悟しよう


これはポジティブ野郎なのか……?はて………

ちょっと分かった

生きづらい理由がちょっとわかった。自分のことを徹底的に攻撃する癖がある。理想と現実のギャップが大きすぎる。現実を認められない。ので、小さなことでものすごいショックを受けてしまう(理想が打ち砕かれ、現実に気づかされるため)。


また、付き合った人を振ってしまう理由。自分のテリトリー内に入ってくると、相手(半分自分)にも理想を要求してしまう。理想が叶わないと絶望してしまう。それを、その場で言えればいいけど、大体は言えないし、私が絶望していることには気づかない。(私の自分に対する絶望にもあまり気づかれていないので。そのため、普通に接してくるし、もっとやれるよ、と言われる)その理想と現実の差が開きすぎて、つらくなってたぶん振ってしまう。完璧主義で理想主義なのかもしれない。理想通りじゃないと生きていられない。普通の心が保てない。生きていいよって言えない。つらい。

わたしたちは結局は1人であるということを忘れそうになる

ネガテイブな意味ではない。むしろ人間関係を快適に継続させるための心得である(私個人の)。


私が人と親しくなると、だいたい発生する問題は嫉妬心や不安や要求を満たしてくれない欲である。


「わたしたちは結局は1人の人間である」ことを忘れそうになって、自分の幸せや欠乏感を何かをくれる誰かに満たしてもらおうとしてしまう。空いた穴を誰かが埋めてくれるんじゃないかと期待して油断しはじめる。


親しくなるにつれ、無意識に溢れ出てくる依存心をひた隠しにしている。普段は、どちらかと言えば、クールだねドライだねと言われるから、取り繕うことに成功しているのだろう。でも、それはものすごい依存心の裏返しである。油断するとものすごい甘えたくなるし境目もなくべらべらネガテイブなことを話してしまいそうになるので、意識してツンケンしている。可愛くないと言われればその通りである。


だから結局いちばん心が休まるのは1人の時なのだった。人が離れていく心配も、人が心地いいかどうか帰りたくないかどうかの心配もしなくていい。1人か、ある程度親しい友人何人かと短い時間、話題ができた頃に会う状態がちょうどいい。


「他人が信頼できない」と言う時、他人のどこが信頼できないのかと思うが、私は未来的な時間軸の約束が信頼できない。そして私も約束できない。人は刻一刻と変化しているのに、予想できない未来を約束するっていうのは、「それだけの(予想できない未来までこの意思を持ち続けたい)覚悟がある」という宣言だと思えば良いのだろうか。こういう考え方をするようになったのは、過去に何か未来的な約束をして裏切られたことでもあったのだろうか。


たぶん、自分自身の未来に対して持っていた約束(期待)が果たせなかったからだと思う。小さい頃、小5になったらあんな風に背が伸びて可愛くなるんだろうなあと勝手に信じ込んでいたけどならなかったし、中学生でマジメを続けてそこそこいい成績取っていい子でいたら、高校では「何かが」(具体的には、漫画みたいなリア充ハッピーライフ)報われると何の根拠も検証もせず疑わなかったけどそれも叶わなかった(今思うと、努力の方向性を間違えているので当たり前)。


そんな些細なことである。結局このくらい性格もその時つくられたのかなあ


※追記

ポジティブな言い方でめちゃくちゃいい記事がありましたので載せておきます。


夫婦関係を円満に続けていく秘訣を描いた漫画に「これ大事」「人間関係全てに使える」

https://togetter.com/li/1111223

言えないことが増えてきた

昔から秘密主義なところがある。それは理由があって、小学生の頃好きだった漫画の主人公が秘密を持っているミステリアスガールで憧れたり、意見を少しでも否定されることがものすごく嫌だったりするからだ。だから隠さなくてもいいことを隠したりする。いやらしいことではないけど、この意見は受け入れられないだろうなと思うことは隠す。もちろん、相手によって出す情報と量は変える。何を言っても否定せず受け入れてくれる菩薩のような人だったらべらべら喋ってしまうだろう。


最近仲の良い友達と、彼氏ができたけど、言えないことが増えてきた。それは相手の価値観を以前よりわかり、意見が否定されるか受け入れられるかある程度予想できるようになったからだ。この食べ物が好きとか、この趣味が合わないとか疲れたとかは言えるよ。でも根本的な部分は、これからも仲良くしていきたいから言えないんだ。逆だろって言われそう。まだ好きな人から否定される覚悟ができない…

感情の起伏が激しすぎて本当に生きづらい

死にたいわけじゃない。落ち込んでいる時の気分がつらすぎて何度もやめたいと思ったけど無になれないこともわかったので、もはや死んで楽になる道は諦めている。

それでも本当に感情の起伏が激しすぎて生きづらい。少しの自尊心に触れられただけで、真っ向否定された気がして(相手は励まそうとしているとしても)何もしたくなくなるし、ちょっと褒められても、最近はありがと〜って受け入れることにはしているけど、自分が認めていないことは他人に認められてもそう簡単には褒めることができない。


その感情の起伏に関して、周りに伝わっていると思っていたがそうではなかったみたいだ。私が諦めそうになると、もうちょっと頑張れ、もうちょっとやれば何かできるかもしれないのにそこで諦めるのはもったいないと言われる。いや、わかる。好意で言ってくれているのもよくわかる、しかし、ちょっと無理してチャレンジしてその後の自分を受けとるのは誰だ。自分だ。それを有り難く言ってくれる人には、私がそのちょっとの無理に耐えられるように見えているんだと思う。


そういう、無理するか無理しないかしてここまで生きてきたけど、どんな些細なことでどこまで崩れるか知らないだろう、と思ってしまう。恩を知らないよなあ、でも、言葉やアドバイスはどれだけ無責任かと思う。だから私も、自分が元気で優位な時にそのような発破をかけることをしてしまっていたかもと思うと謝りたくなる。


追記

※あまりに感情的すぎて人生(就活)に支障がでてきそうなんで「感情的にならない本」(アマゾンベストセラー)でも読もうかと思います。

また啓発本ブームか…という感じですが読んで考え方が変わったか、また書きますね。