あたりまえたいそう

当たり前のことをかきます。たぶんINFP

ついにネガティブをやめる日が来たらしい

ネガティブや哀愁は自分のアイデンティティのひとつだと思っていた。それで魅力が増している部分があるような気がしていた。(あながち間違いではないと思う)


会う人話す人にネガティブやめた方がいいよと言われるようになった。こんなことは少し前までなかったことだ。(あるいは、あったのかもしれないが気づけなかった、気づかないふりをしていた)周りの環境が確実に変わってきていた。


無理にでもネガティブ強制したほうがいいやでワイが治してやる!(こんなことは言っていない)とわざわざしてくれる人があからさまに増えた。多分私がもろに生きづらさを露呈しはじめたからだろう。おちゃらけとネガテイブの差が激しいので見ていられない(可哀想)のかなという気がする。


生きづらさを露呈するのにはもちろん恐怖があった。過去に人を困らせてしまったことがあった。それはものすごく距離の近かった友人や、親や、ネットの友達だったりである。あれは露呈の仕方がものすごく直接的で横柄でひどかったなという記憶がある。


ネガティブを離れるのは正直寂しい、こわい、何か生み出せなくなるのでは、という思いもあるのだけど、生きづらさが解消されるのならこの機会にポジティブ野郎になってみるのもいいなと思います。ポジティブ野郎になります。宜しくお願いします


具体的に提案された案は

・メンタル面が心配で行動できないなら病院いけ!(行動できない理由を行動して解消しなさい)

・逃げを覚えよう

・先延ばしをやめよう

・ぐだぐだやめよう

・言い訳やめよう

・覚悟しよう


これはポジティブ野郎なのか……?はて………

ちょっと分かった

生きづらい理由がちょっとわかった。自分のことを徹底的に攻撃する癖がある。理想と現実のギャップが大きすぎる。現実を認められない。ので、小さなことでものすごいショックを受けてしまう(理想が打ち砕かれ、現実に気づかされるため)。


また、付き合った人を振ってしまう理由。自分のテリトリー内に入ってくると、相手(半分自分)にも理想を要求してしまう。理想が叶わないと絶望してしまう。それを、その場で言えればいいけど、大体は言えないし、私が絶望していることには気づかない。(私の自分に対する絶望にもあまり気づかれていないので。そのため、普通に接してくるし、もっとやれるよ、と言われる)その理想と現実の差が開きすぎて、つらくなってたぶん振ってしまう。完璧主義で理想主義なのかもしれない。理想通りじゃないと生きていられない。普通の心が保てない。生きていいよって言えない。つらい。

わたしたちは結局は1人であるということを忘れそうになる

ネガテイブな意味ではない。むしろ人間関係を快適に継続させるための心得である(私個人の)。


私が人と親しくなると、だいたい発生する問題は嫉妬心や不安や要求を満たしてくれない欲である。


「わたしたちは結局は1人の人間である」ことを忘れそうになって、自分の幸せや欠乏感を何かをくれる誰かに満たしてもらおうとしてしまう。空いた穴を誰かが埋めてくれるんじゃないかと期待して油断しはじめる。


親しくなるにつれ、無意識に溢れ出てくる依存心をひた隠しにしている。普段は、どちらかと言えば、クールだねドライだねと言われるから、取り繕うことに成功しているのだろう。でも、それはものすごい依存心の裏返しである。油断するとものすごい甘えたくなるし境目もなくべらべらネガテイブなことを話してしまいそうになるので、意識してツンケンしている。可愛くないと言われればその通りである。


だから結局いちばん心が休まるのは1人の時なのだった。人が離れていく心配も、人が心地いいかどうか帰りたくないかどうかの心配もしなくていい。1人か、ある程度親しい友人何人かと短い時間、話題ができた頃に会う状態がちょうどいい。


「他人が信頼できない」と言う時、他人のどこが信頼できないのかと思うが、私は未来的な時間軸の約束が信頼できない。そして私も約束できない。人は刻一刻と変化しているのに、予想できない未来を約束するっていうのは、「それだけの(予想できない未来までこの意思を持ち続けたい)覚悟がある」という宣言だと思えば良いのだろうか。こういう考え方をするようになったのは、過去に何か未来的な約束をして裏切られたことでもあったのだろうか。


たぶん、自分自身の未来に対して持っていた約束(期待)が果たせなかったからだと思う。小さい頃、小5になったらあんな風に背が伸びて可愛くなるんだろうなあと勝手に信じ込んでいたけどならなかったし、中学生でマジメを続けてそこそこいい成績取っていい子でいたら、高校では「何かが」(具体的には、漫画みたいなリア充ハッピーライフ)報われると何の根拠も検証もせず疑わなかったけどそれも叶わなかった(今思うと、努力の方向性を間違えているので当たり前)。


そんな些細なことである。結局このくらい性格もその時つくられたのかなあ


※追記

ポジティブな言い方でめちゃくちゃいい記事がありましたので載せておきます。


夫婦関係を円満に続けていく秘訣を描いた漫画に「これ大事」「人間関係全てに使える」

https://togetter.com/li/1111223

言えないことが増えてきた

昔から秘密主義なところがある。それは理由があって、小学生の頃好きだった漫画の主人公が秘密を持っているミステリアスガールで憧れたり、意見を少しでも否定されることがものすごく嫌だったりするからだ。だから隠さなくてもいいことを隠したりする。いやらしいことではないけど、この意見は受け入れられないだろうなと思うことは隠す。もちろん、相手によって出す情報と量は変える。何を言っても否定せず受け入れてくれる菩薩のような人だったらべらべら喋ってしまうだろう。


最近仲の良い友達と、彼氏ができたけど、言えないことが増えてきた。それは相手の価値観を以前よりわかり、意見が否定されるか受け入れられるかある程度予想できるようになったからだ。この食べ物が好きとか、この趣味が合わないとか疲れたとかは言えるよ。でも根本的な部分は、これからも仲良くしていきたいから言えないんだ。逆だろって言われそう。まだ好きな人から否定される覚悟ができない…

感情の起伏が激しすぎて本当に生きづらい

死にたいわけじゃない。落ち込んでいる時の気分がつらすぎて何度もやめたいと思ったけど無になれないこともわかったので、もはや死んで楽になる道は諦めている。

それでも本当に感情の起伏が激しすぎて生きづらい。少しの自尊心に触れられただけで、真っ向否定された気がして(相手は励まそうとしているとしても)何もしたくなくなるし、ちょっと褒められても、最近はありがと〜って受け入れることにはしているけど、自分が認めていないことは他人に認められてもそう簡単には褒めることができない。


その感情の起伏に関して、周りに伝わっていると思っていたがそうではなかったみたいだ。私が諦めそうになると、もうちょっと頑張れ、もうちょっとやれば何かできるかもしれないのにそこで諦めるのはもったいないと言われる。いや、わかる。好意で言ってくれているのもよくわかる、しかし、ちょっと無理してチャレンジしてその後の自分を受けとるのは誰だ。自分だ。それを有り難く言ってくれる人には、私がそのちょっとの無理に耐えられるように見えているんだと思う。


そういう、無理するか無理しないかしてここまで生きてきたけど、どんな些細なことでどこまで崩れるか知らないだろう、と思ってしまう。恩を知らないよなあ、でも、言葉やアドバイスはどれだけ無責任かと思う。だから私も、自分が元気で優位な時にそのような発破をかけることをしてしまっていたかもと思うと謝りたくなる。


追記

※あまりに感情的すぎて人生(就活)に支障がでてきそうなんで「感情的にならない本」(アマゾンベストセラー)でも読もうかと思います。

また啓発本ブームか…という感じですが読んで考え方が変わったか、また書きますね。

自分はそこにあるから、探す必要なんてない

こんにちは。曇り気味の日曜をいかがお過ごしですか。私はたのしいプライム生活を送っています。

蒼井優だいすきな私はやっと「百万円と苦虫女」を視聴しました。

表題はその中で印象的なセリフ(たぶん間違ってる)ですが、蒼井優の……というか役のこういうところだいすきですね。脇目もふらずバイト行っては家に帰る生活を毎日続けることができるようなストイックな(本作はそれで百万円が貯まったら次の街へ引っ越すという話)性格も、私はできないので超かっこいいと思います。今の彼氏もそういう人です。


そんな私は日曜の朝から自分を探しにいくのですがはたして見つかるのでしょうか。見つかるわけない。産み落とされたわけでもない親戚もいないあこがれて見栄をはりまくって立っている都会の喫茶に自分が落ちてるわけない。ありがとうございました

は?しあわせすぎなんだが

急にしあわせがやってきた。私の地獄のような(主に心が)生活が四年目にして功を奏した。いや毎回、連続した生活の終盤一年間にしあわせはやってきて環境が変わるとふたたびあたふたしはじめる。書いてみたらあまりに普通すぎてわらえる。


そのしあわせを守る方法についてである。これまで散々書いてきたように、私は些細なことで心が壊れてしまう。あと、飽きっぽさが周りの平穏を壊してしまう。

べつに悪いことではないけど、見切りが早すぎて何も成せないことが多々ある。


一番途切れないのはほどよい緊張感と不安である。見放されるかもしれないくらいに感じているのがちょうどよくて、そのほうが、ひとこと発する言葉に気をつかえるし自分の出さなくてもいい人に甘えきった部分もちょうどよく抑えられて良好な関係を築ける。とおもう。


ぜんぶだすのが人間関係じゃない。とおもう。小学生くらいの頃、好きな人がいて「なんで好きな人に好かれるために自分を変えなきゃいけないんだろう、ありのままの自分をぜんぶすきになってくれたらいいのに」と真顔で思っていた。たいそうな自信である。せっかく係で廊下をふたりで歩ける機会があったのに、私はぷんすか(?)真顔で「話しかけてきてくれないかな〜」と思っていた。あほである。いまなら◯◯くんの趣味を聞くか服を褒めるくらいする(恥じらいが消えたとも言える)


しあわせを守る方法は、親しき仲にも礼儀あり…ですかねぇ……。