あたりまえたいそう

当たり前のことをかきます。

ラーメンを美味しくたべる話

何でラーメン食うのにおいしい!って言わなあかんのやろ、と冷静に思った。ラーメンという熱くてすばやく平らげたほうがいい食べ物は、おいしい!だとか口に出している暇もなく美味しさをすすったほうがいいのに。でも私も会社の人とだとか、ご飯を一緒に食べるのに慣れていない人となら、おいしい!って感想を伝えあってラーメン食べるんやろな、と思うし、美味しさの鮮度よりも食事している相手の方を優先する。ラーメン自体の美味しさを味わうなら気兼ねなく食事できる環境の方がいいし、おいしい!と伝えたい誰かと食べたラーメンは食事したことそれ自体が「美味しかった」になるんやろな

カテゴライズ

急に好きだったYoutuberや頭のいい人たち(自己啓発系)が好きじゃなくなった。人のことをでかい主語でジャッジするエンタメだからだと思う。本だと、実用書系の本だと、個人の人に向かって話すわけじゃないからそうならざるを得ないところがあるのだけど、(これこれこういう人はこう言うところがだめ、これこれこう言う目的があるならこう言う努力をしろ)、その言葉が欲しくて読んでる間は良い、麻薬みたいなもの、語気が強くないと気持ちよくないとすら思う。でも一旦、マウンティング女子〜のあとがきで語られるような、「聖人」に囲まれているとその考え方に違和感を抱いてしまう。「聖人」は、本当に聖人なのである。人をカテゴリでジャッジしたりしない、それは、人間だからあからさまに嫌がらせをされた相手は嫌いになるだろうが、それでも、些細な上下関係や些細な勘違いを気にしない。器がでかい。私は彼らに心底憧れていて毎日違いに絶望している。人のことを、自身の外見にコンプレックスがあるから、人のことも0.1秒で判断してしまうところが、本当に救われない。「本当に救われない」などと本当は言いたくない。そんな嫌な奴もいる、でも社会ではそれを露骨に出さなければうまくやっていけるよと、これまで数十年生きてきてしまったじゃん結局、などと言って誤魔化してやりたい。もう誤魔化しが聞かない。と言うか自分が失敗したくない。辛い

親くらいまで人生を重ねたら生きるのは楽になるのかな

最近親くらいの年齢の人と話をした。その方はとても陽気な人で、接したことはあれど、他愛のない会話をしたことがなかったので、その人の朗らかさにびっくりした。

いや、年齢じゃない、人柄、というのはわかっているけれど、私も人生を重ねることで、(ここまで生きてしまったという経験やいろいろでどうでもよくなって、思ったように振る舞える、いろいろの普通解がわかる)こういう感じに柔らかくなれたら良いのに。と思った。

 

ある年代になると、いろんなことがどうでもよくなるし、未来が〜とか承認欲求が〜とかの感情が薄くなるときがあるから頑張れという話があるけどそれを信じてもよいのか。

でも現実でもネットでも、その例に当てはまらない人を知っている。親のそんなの思春期でしょという言葉は、大人的な年齢になってもこじらせている自分には合っていなかったので、この法則もあんまり信じちゃいけないのかもしれない。

 

※普通解が〜とか言ってる時点でこじらせてるのはわかる。

※楽になる〜という表現が語弊を生みそうではある。いくら生きたって楽ではないと思うけど、いくつか増えた正解を自分の中に持っていると信じたい。

生きるかどうか、選ぶ権利は君にあるって言ってほしかっただけ

だから大森さんの歌や、哲学や、それら「生きること自体を疑う人」を見たりすると泣いてしまう。生まれた瞬間、生きなければならないという使命を与えられるなんて信じられないな。重すぎる。僕らには意志はない。だから出生反対派には賛成できる。

 

だからって子孫を残したくないわけでもない。身勝手な行為だなと今でも思う。

ポジティブな人について、最近考える。ポジティブな人は2種類いると思う。本当に何も考えずに良いを信じきっている人と、考えたうえで責任を受け入れ良いを信じている人。後者は偉いな。私は最近後者になりたい。後者の人はとてもかっこいい。ただ今の私には、前者と後者をぱっと見分けるのは難しい。

 

生きるかどうか選ぶ権利は君にあるよ。皆にあるよ。その前提で生きてほしかった、前向きに、とか、約束は守れ、とかこちとら、瞬間でその狭間を迷っている。それは子どもっていうんだってね。私はまだ大人になれない。大人のフリが、長くできたらいいな

肯定感を育むための全て

久々に本業で幸せな気持ちになったので書くのですが、仕事もセックスも友情も趣味もひとの肯定感を育むための全てなんじゃないかって。

ひとが健康的に生きていくための根本に肯定感があるから、それを育むためにひとと関わろうとしたり何かの活動を通して自分で自分を認めようとしたりしているんじゃないかって。寂しいも愛も遊びも意識高い系も歌手も服も。

生きていていいよって言ってほしかったな、間接的にでも、「本当にそう思っている」と感じられるような行動が欲しかったんだ、って。欲張りなんだね。他の人は言われなくても生きていけるのに。

他人の些細なマイナス感情や無関心を読み取り、何かの拍子ではっきりとそれを言われてしまえば、肯定感など積もっていない中身がたちまち壊れてしまう気がしていた。私の病はずっとそれだ。

思春期を過ぎても持病の臆病は環境に守られていたので、強くなる覚悟もせず、潰れては休んで諦めて生活を続け、健康な人とどこか対等に立てないでいた。

【健康で文化的な人間らしい生活を送るために必要な肯定感を育むための全て】

周りの気持ちを考え始めた途端に破綻

することが多い。私は。大体、一対一の数十分ならまだしも、会社など、何十人もいる中で周りの気持ちを慮りはじめると大体私の心の生活は破綻する。行動に一貫性がなくなる。それが心の中の疲労の原因であることに気づくのはとても遅い。その頃には自分の気持ちがどれなのかわからなくなる。その時に何かしらの選択をすると、選択が間違っていたかのように思う(実際は選択に"間違い"などはないので、思う、なのだ)。選択を後悔する時、大体周りのせいにする。「あの人がああ言っていたから」「周りの環境的に、無理のような気がしたから」私がこれまで、これは絶対に確実に自分で決めたし自分がしたいし自分で責任を負うと決めて行動できたことはひとつしかない。内容はここでは書けないけれど、何が起こってもしない方が後悔する、と思ってしたことだ。自分の気持ちは自分の気持ちであると断言するのは、人がたくさんいる中で生きているうえでほぼ不可能だと思う、油断していると誰かの思考が自分の中に入ってくる。だからたくさんの知り合いと心地よく過ごすのは私にはできない。

SNSが人格を持ち始める日

いろんなサービスを始めて、ある程度の日数が立つと人格を持ち始める。見ている人がいなくても、いればなおさら、なんとなくそれを守ろうとする。人間は「一貫性」をとても重要視するらしい。辻褄が合わなくなると、言い訳をしてでも一貫性を持たせようとする。

社会的なことが私は本当にきらいだ。苦手だ。その中で求められているような人格になろうとしてしまう。息苦しい。

それを皆は上手くスルーして生きていくのだ。時々リセットしたくなる症候群(http://menhera.jp/2484)はここからくるのだ。SNSこそ簡単だが(口で言うのはそうであっても)、私は1番最初に作ったもはやフォロワーのジャンルが混沌として発言がしにくくなったtwitterアカウントでさえ未だリセットすることができていない。執着はないつもりでいるのだが、可能性を捨てるのがとても苦手なのだ。

これは夏バテだ。そう思っておくことにする

 

※前回「社会のことが分かった!」と書いておきながら今回「社会が嫌いだ」と書いているの情緒不安定っぷりすごいなと思いました(理解と好きは違いますが)。びっくりしました。